研究授業に向けて

引っ越し、家族の介護、部活動の引率などで多忙を極めておりました。
なかなかブログ執筆に着手できず、もどかしかったですが、久しぶりに書いていこうと思います。
今回は英語のノウハウではなく、自分の書きたい近況をゴリゴリ書いていきます。
教員として7年目。色んな仕事に携わってきましたが、また大きなステージに自分が上がろうとしている気がします。
研究授業。。。。。
私学の研究授業は公立学校のそれとは違い、外部から様々な人が見に来ます。同じ教育委員会に所属している同業者ではなく、他企業から色んな先生、講師、著名な教育者。
そんな方々に、本校の授業の最先端であるという前提を持たれた状態で、自分の授業を見てもらうわけです。私は本校の英語教育のモデルであり、顔であります!! とうふうに、、、、、
公立学校の研究授業では「諸先輩方!! 未熟な自分の授業にメスをいれてください!」って感じですが、私学の場合は「わが校の教育はこのように実践しております!」って感じですね。
着任して6か月の新任教員がする仕事じゃない、、、、
本校の教育の顔を見せるなら、本校で20年近くやってきた教員が、「本校の教育はこんな感じです~」って見せるべきやろが!! なんで6か月の教員に本校の教育を語らせるねん!!!!
と、同じ境遇の新任の同期とビールを飲みながら愚痴大会を開いておりました。おかげで痛風になり、学校を二日間休みました。テストも近いのに何をしているのやら。。。。。
しかし、この逆境をあえて、自分のネクストステージに繋げたいという、自分にしてはかなりポジティブな感情もわいてきています。
実をいうと、最近は授業方法において何が正しいのか、自分は授業を通して何をやりたかったのかが全く分からなくなり、迷走しまくっていました。
こんな大学入試のためだけの授業をしていても何も始まらない。ていうか自分が今説明していることは、子供たちは家でAIで自分で勉強できる。英語を話せる授業に大きくシフト転換をしてみたものの、これでいいんだという実感が持てない。第二言語習得論で理論を学んで授業に落とし込んでみたものの、言語化できないモヤモヤ感がある。なんというか、借り物をつかってみて、できた気になっているような。有名な映画のセリフを暗唱してみて、自分はその映画の役者になったと強制的に思い込もうとしているような感覚。実践理論を読んでいて、納得できることはたくさんあるのですが、その理論が効力を発揮する前提は、目の前の子供たちの状態やできていること、できていないことを確実に把握し、そんな子供たちに対して、実践方法を調節することにある。子供たちのことを分かっていないのに、本で読んだ理論をとりあえず当てはめている感覚がある。
あ。言語化できましたね。私の大好きなピース又吉大先生も「伝えたいものがあるから書くのではなく、書いていくと伝えたいものがでてくる」と言っていました。その現象が今起きました。
最近はそんなモヤモヤの中でジタバタ何かを変えようとしています。
そんな中で、研究授業をすることになり、自分の授業を見つめなおす機会ができました。
これは自分のためにも頑張らないといけない。何かを変えることができるかも!
こんな感じで受け止めています。自分の力だけでは全く自信がないので、尊敬する同僚にお願いし(ほぼ向こうから申し出てくれました。マジ神)授業を見学、助言をたくさんしていただいています。
英語教育に関して本気で向き合ってきた人なので、フィードバックの質と量がえげつない、、、、!!!!!
改善点が大量に送られるというのは、ある意味自分の授業のだらしなさが露呈しているようなものなのに、驚きと発見がなかなか楽しい感覚があります。これは、今までの人生で初めての感覚でした。(これまでは、人に指摘されるのが怖くて見学されるのを避けていました)
自分の英語力をもう少し信じてもいい、そのうえで生徒と教員のインタラクションを楽しめばいい、インタラクションのなかで生まれた疑問(英語でどう表現すればいいのだろう)を共有すればいい、そのつながりでフィードバックを授けていけばいい。これまでは型にはめて、フレーズとフォーマットの音読をまるでマシーンのように無機質に練習させまくっていましたが、あくまでリアルな会話をしようとトライすること、その場で考えて話そうとすること、感情をこめて話そうとすることが英語を話す能力につながるんだと感じました。
色んなことが身についていく感覚があります。生徒の顔が少しずつ変わっていく様子も見受けられました。
「先生そんな喋れるんや」という言葉は嬉しかったですね(もっと喋っておけばよかった)
今思えば、周りとの違いが出すぎないように授業をしていたのが、英語の話す量を減らしていたのかもしれません。自分が英語を話しまくりながら授業をできるのはある程度分かっていましたが、あえてそうはしなかったのも事実です。周りの目を気にしすぎていましたね。ここだけは本当に生まれたときから現在まで変わらない。この性格のせいで多くのチャンスをつぶしてきました。そんな自分と早くおさらばしたい。
いや、もう少し深く振り返ってみると、英語を話せるように育てることに対して真面目になりすぎて、色んな事が見えておらず、結果的には不真面目になっていました。
自分の経験的には、英語上達の近道はいかに、リスニングの音と照合できる音声的知識、意味をインプットできているか。いかに、自分の言いたいことを即座に英語にするためのインプットがあるか、のみに焦点を合わせていました。よって、それに到達できるのは大量の暗記と暗唱であると信じていました。そのためなら人と会話するなかで、「あなたが好きですって言えないな。え~と、辞書で調べると、、、I love you か」の時間は全くもって無駄な時間であり、一人で先に辞書でI love youを作り上げ、一人でそれを100回音読する方がいいと考えていました。もちろん、それでも効果はあるのですが、英語を勉強するのは冷たいマシーンではなく、心を持った人間です。機械的な暗唱の連続では動機が下降し続けるところを無視していました。(それができる人は、機械的音読作戦の方が能力の向上に即効性があります)
いろいろ言いましたが、ようは、見えていないところがあるかもしれない、と思えるようになったことが収穫かもしれません。
来年には新しく解説される国際コースを任されることも考えれば、ここで一発自分のしょぼい授業力を、一気に爆上げさせておきたい。心からそう思いますね。
自分の「授業を通して人をどうしたいか」という考えがあまりにも浅く、思考の回数も少なく、芯がないかを思い知らされた。そんなこの頃でした。いい意味で。